三田通りと日比谷通りに挟まれた北四国町は、東西南北の格子状に作られています。
その大小様々な通りには個性的な名前がついており、この町に住む方々の思い出には必ずと言っていいほど、通りの名前が登場します。
三田通り
三田(御田)は古くから町屋(普通の人が住む家)が多い所で、三田通りは春日神社を中心に色々な店が並んでいた。路面電車が通り、銀座に商売の中心が移るまで大変栄えていました。その商売繁盛の理由としては、七大黒(寄席)・今半(スキヤキ屋)・三田子育延命地蔵の縁日の3つが在ったからだと言われていますがしかし、なんと言っても慶應義塾と共に発展してきた三田の町。開校以来、三田の山に出入りする学生・関係者からの情報が多く集まる為、三田の通りもそれにつれて、当時としてはモダンな雰囲気のある町で、流行の先端を行く今の銀座通りや表参道のような感じでした。今の「銀ブラ」のように「三田ブラ」という言葉が有ったほどでした。
芝っ子 三田通りの思い出 25ページ より
主な施設・建物
コミュニティハウス
いろは通り
明治中頃に横丁の入口、右角に「いろは」という立派な骨組みの大きな料理や(日本で初めての牛鍋屋)が在った事から、いつの間にか「いろは横丁」と呼ばれるようになりました。木村壮八(小説家)の生まれた家です。この店の主人木村壮平氏は中々のやり手で「いろは四十八文字で48支店を出す」という心意気で名付けた店の第1号店でした。次々に増やす支店は、皆それぞれ主人と特に関係の深い女性に任され、とうとう28軒目で亡くなったのですが、まったく男冥利に尽きる羨ましい話です。
この葬儀が又、大したもので支店の女将が揃って黒の喪服を来て丸髷を結い、人力車二十八台を三田通りにズラリと並べた光景は壮観でした。松村逍風の著書「近世名勝負物語」に登場し、明治の男の大きさを感じさせる有名なお芝居になった話です。
芝っこ 横丁(1) 28ページ より
主な施設・店舗
芝の家、芝のはらっぱ
アポロ通り
その昔、古川を利用した舟運で運ばれた材木を扱う材木商が立ちならぶ通りで、その名を「材木通り」と呼ばれていましたが、1968年世界初の有人ロケット「アポロ7号」の打ち上げ成功を記念して「アポロ通り」と改名しました。
この通りは、古くから電柱の地中化が進み町内一の幅員を有していたこと、ならびに初代町会長(奈良弘文)宅が面していたことなどから、盆踊り・ラジオ体操などの町内会活動が行われる場所でもあり、多くの人々が集って楽しんでいました。
近年周辺の開発が行われた関係で、事務所・マンションなどが立ち並ぶ通りとなりましたが、通り半ばに「芝地区高齢者相談センター(芝地域包括支援センター)」が位置していることから、地域の多くの高齢者が集うエリアとなっています。
主な施設・店舗
芝地区高齢者相談センター
中央通り
この通りは、町内を南北に横切る大きな通りである。
昔は、この通りに沢山の商店が軒を連ね、数多くの人々が行き交っていました。ガソリンスタンド、ふとん屋、肉屋、電器屋、とうふ屋、酒屋、パン屋、たばこ屋、内科医などの店構えが思い起こされます。まさしく町の中心エリアであったとも言えるでしょう。
いまでは、代替わりした数軒の飲食店が人々を寄せ集めているほか、コミュニティーバスの運行経路ともなっていることから多くの人・車両が行き交う通りとなっています。
主な施設
芝三丁目(ちぃばす停留所)
薩摩の小路
この通りは、町会東側の再開発の折に、この地域の歴史性や風土性の魅力を基に、コミュニティー空間を創出すべく新たに生み出された道です。
江戸時代この芝の地には、薩摩島津藩の上屋敷が置かれていたこともあり、土地の記憶を永く留めるために「薩摩の小路」と命名しました。
緑多く、水の流れるこの空間は、開放的で多くの来街者を迎え入れています。まさしく「働く」「遊ぶ」「住まう」これらの多様な活動が実現されたとも言えます。
また、この通りには、町内会館「四季」も面しており、四季折々の町内行事開催の折に沢山の人々が挙って楽しんでいただいているエリアでもあります。
主な施設・店舗
町会会館「四季」