江戸時代半ば、この辺りはほとんど大名屋敷で、後は数件の寺院と少しばかりの町屋がひしめいていた。

阿波の徳島、土佐の高知、讃岐の高松、伊予の松山という四国四藩の屋敷が隣り合っていたことから、三田通一帯を含めて四国町と呼ばれており、この地には江戸時代初期から薩摩の上屋敷があった。

慶応3年(1867年)明治維新の発端ともいえる薩摩屋敷の焼打ち事件があり、明治維新になり年号が移り変わると、江戸藩邸にいた武士たちは江戸屋敷を新政府に引き渡し国元に帰るものが続出した。

明治初年には、屋敷あとのあちこちにははらっぱや空地が残り人々は薩摩っ原と呼んでいた。

明治5年(西暦1872年)に大町割が定められ、公に町名が三田四国町となった。

その後、薩摩屋敷跡にはいくつもの道が通り民間に払い下げられ、町屋として発展するようになった。

時を経て、三田四国町には、職人が多く住んでいて、表具や洋服・帽子などを作っていました。

タンス屋などは神田の職人が移り住んだといわれています。

洋服・帽子屋、そして下宿も沢山あったのは、慶応大学の学生のためのようである。

昭和39年の住居表示の改正により、三田四国町は芝二・三丁目となった。

三田通り・日比谷通り沿いのビル化や再開発などの変遷を経て、町内の商店の多くはその姿を消しました。

しかし、新たに移り住んできた人達ならびに従前からお住まいだった人達、老若男女が静かに営みを続けている。

 



 

 

詳細は 終の住処を守る会監修「 芝っ子